年間第11主日

6月18日 年間第11主日 マタイ9章36節~10章8節  飼い主のいない人々に福音を

 今日から主日としては年間に戻ります。四旬節の前が年間第7主日なので飛んでいるように思いますが聖霊降臨の週が年間第8週、三位一体の主日の週が第9週、キリストの聖体の週が第10週にあたるので、聖霊降臨の週から年間に入っていることになります。
四旬節前の年間はイエスの宣教、聖霊降臨後の年間は教会の宣教を記念する期間なので、教会の誕生日と言われる聖霊降臨後に年間が始まるのはふさわしいことなのです。

 今日の福音はイエスが弟子たちを派遣される場面です。弟子たちとそのあとを受け継ぐ教会の宣教を表している、まさに年間にふさわしい箇所だといえるでしょう。イエスが派遣されたのは十二人の弟子、すなわち十二使徒です。弟子は師のもとで学び、使える立場ですが、ここでイエスは弟子たちに、新たに「使徒」の役目を与えられました。それは師のもとから人々のもとへと遣わされるという役目です。
 マタイの福音書で見る限りでは、失礼ながら弟子たちは十分教育されている状態ではないように思います。彼らは弟子になって時間がたっていないようですし、派遣されたあとでさえ、イエスの受難の意味を理解していないようです。イエスが十字架につけられたときには逃げてしまいました。そのような状態で弟子たちは何を伝えに行ったのでしょうか。
 ここで注目すべきは、イエスが「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」ということです。文脈から見て、これが弟子たちの派遣の動機になっていることは間違いないでしょう。本来ならば、祭司や律法の専門家など、当時のユダヤ教の指導者たちが群衆の飼い主であるはずでした。しかし、指導者たちは律法の細かい規定を守ることを教えました。群衆の多くは貧しい人々や罪びととされていた人々、病気の人々や体の不自由な人々であったと思われます。彼らは律法を守る余裕もなく、罪びと扱いされていて、まさに「飼い主のいない」状態だったのです。
 そのような人々に使徒である彼らが伝えたこと、それは山上の説教にあるように「あなたがたは幸いである」「あなたがたは地の塩、世の光である」ということだったのではないでしょうか。そして「わたしたちの先生は、あなたがたみんなが神さまの光を持っているとおっしゃっています」と告げ、イエスこそが飼い主であることを証ししたのです。

 わたしたちも教会の一員として派遣されています。とはいえ、病人をいやしたり死者を生き返らせたりすることはとうていできないでしょう。イエスの教えもちゃんと伝えられないと思います。でも、弟子たちもイエスの派遣に信頼して出ていきました。わたしたちは病気をいやすことができなくても、病気の人とともにいることはできます。亡くなられた人のために祈ることはできます。そして、飼い主がいない状態の現代の人々に、「わたしはイエスこそわたしの飼い主であると信じている」と伝えれば十分です。

(柳本神父)