待降節第一主日
12月1日 待降節第一主日 ルカ21章25~28、34~36節 目を覚まして救い主と出会う
今日から待降節が始まります。もちろん主の降誕を迎える準備の期間の始まりですが、今日の福音は先々週の福音朗読の続きのような内容で、世の終わりについて書かれています。待降節の始まりにあたり、わたしたちはこの箇所から何を学ぶべきなのでしょうか。
前半は世の終わりの様子です。先々週と同様、天変地異が起こったのちに人の子、つまりイエスが雲に乗って来るということです。わたしは日本美術のほうが得意なので、「雲に乗って来る」というと阿弥陀さんが二十五菩薩を従えて雲に乗ってやって来る「聖衆来迎図(しょうじゅらいごうず)」を思いうかべてしまいます。困ったもんです。とくに知恩院の国宝「早来迎(はやらいごう)」と言われる図はスピード感があって、すぐに来てくださるという表現がいいですね。いずれにしても雲は象徴的な意味なのでしょう。
今日の福音の主題は、最後の「目を覚ましていなさい」というところにあると思われます。わたしはよく居眠りをするので耳が痛いです。会議中「どうですか」と聞かれてとんちんかんな答えをして恥ずかしく思うこともありますが、午後の会議は知らないうちに夢の世界に行ってしまうのでお許しください。しかし、目を覚ましていなさいと言われても四六時中起きて祈っているわけにはいきません。もちろんこれは象徴的な意味でしょう。
わたしはこれを「いつイエスとの出会いが用意されているかわからない」ということだと考えています。日常生活のいろいろな機会にイエスとの出会いが用意されています。けれども心が眠っているとそのことに気づくことができません。うわさ話に夢中なとき、財産を増やすことばかり考えているとき、人の欠点を探しているときなど、自分中心に考えていると、そばにイエスが立っておられても見えないのです。でもそのような生き方に疲れたとき、自分の力ではどうにもならないことに気づいたとき、失意のうちに希望の光を探し求めているときなど、そこにイエスがおられることに気づくのではないでしょうか。
このみことばが待降節に読まれることには意味があります。多くの人々が救い主を待っていた時代、知らないとき、知らない場所に救い主はひっそりと生まれていました。その救い主に気づくことができるよう、今日の福音は「目を覚ましていなさい」と呼びかけているのです。
待降節は主の降誕を準備するときですが、現代に生きる私たちは、再びこの世に来られる主を迎える準備をしています。今日の福音は「王であるキリスト」と待降節の橋渡しをするものといえるでしょう。
日常生活における苦しみからの解放を願うとき、主はすぐに来てくださいます。ちょうど早来迎の阿弥陀さんのように。そして、日常生活での思いわずらいに振り回されているとき、イエスはそばでじっと待っていてくださいます。そのようなイエスの姿を思い浮かべながら、待降節を過ごしていきましょう。
(柳本神父)