王であるキリスト
11月24日 王であるキリスト ヨハネ18章33~37 王だとはあなたが言っていることです
今日は年間最後の主日、典礼暦では年末にあたります。待降節第一主日から始まる一年で救いの歴史を記念するので、最終週は世界の終わりを記念することになります。世界の終わりにはこの世が神の国となり、キリストが王として再臨されます。それで今日は「王であるキリスト」を記念します。
世の終わりというと今日の福音よりも先週の福音、さらには来週の待降節第一主日の福音のほうがふさわしいように思いますが、イエスが王であるかどうかが裁判の席上で問われた場面が朗読されます。わたしたちはイエスがどのような王であるかをこの箇所から学ぶように勧められているのです。
この時代、ユダヤはローマ帝国の属州でした。ローマ皇帝の直轄領として、総督ピラトが管轄していました。裁判の席でピラトが「ユダヤ人の王」にこだわったのは、ユダヤで王を自称することは皇帝に対する反逆にあたるからです。彼はそれを確認したかったのだと考えられます。
ピラトの人物像については諸説ありますが、イエスの罪を認めず、無罪になるように努力したイエスの味方という説があります。のちにキリスト者になったともいわれています。一方で、イエスの処刑の責任をユダヤ人に転嫁し、自分は関係がないとするずるい人物という評価もあります。いずれにしてもイエスの処刑にかかわったわけですが、権力と政治と保身のはざまでイエスの運命は決められていったのです。
王様というと富と権力を持って人々を支配するというイメージがありますね。「王様ゲーム」もそのイメージで行われます。また、民衆にとってはいきなり「今日からわたしが王だ。皆の者は従え。逆らうことは許さん!」と命令されてしまう存在です。けれども、イスラエルの歴史では、本来の王は神によってえらばれ、人々は喜んで迎える存在でした。もちろんイエスは後者の王です。
神の国は、貧しい人々や苦しみを受けている人々から始まり、すべての人が互いに愛し合い、神のもとに喜び集う世界です。それは神がこの世を滅ぼして与えるものではなく、神の助けのもとで人間が作り上げていくものです。それがイエスの受難と復活によってはじめられたのです。ですから、イエスの愛に応えて人類が神の国を用意することができたときにイエスが王として迎えられるのは当然のことであると言えるでしょう。
イエスはピラトの「やはり王なのか」という問いに対して「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と答えられました。すべての人が神の愛を受け入れ、イエスの願いである神の国の福音を受け入れるとき、あの世の者も含めてすべての人は「イエスこそわたしたちの王だ」と言うことでしょう。世の終わり=神の国は、神とわたしたち人間の思いが一つになるときなのです。
(柳本神父)