年間第18主日
8月4日 年間第18主日 ヨハネ6章24~35節 命のパンは神の国のしるし
先週のパンを増やす奇跡のあと、弟子たちだけで湖を渡ろうとします。そこへ風が吹いて湖が荒れたところにイエスが歩いて来られる出来事が記されています。今日の福音は群衆がイエスを探して湖を渡って来たところから始まります。
イエスは追いかけて来た人々に対し、批判的に接しているように思われます。イエスはは「飼い主のいない羊」のように気の毒な人々だと感じて彼らを深く憐れまれ、教え、パンを与えられたはずです。「パンを食べて満腹した」彼らがさらに食べ物を求め、あるいはこの人こそメシアだと思って追いかけてくるのは自然なことではないでしょうか。いきなりパンの奇跡からイエスの教えの本質を理解することを群衆に求めるのは期待しすぎのようですが、実際のところ、イエスは人々との対話を通して少しずつ丁寧に教えていかれたのではないかと思います。イエスは困っている人にはやさしい方ですからね。
ではイエスの教えはどのように伝えられたのでしょうか。まず、イエスがパンを増やされたのは「しるし」であるということです。その「しるし」の意味について少しずつ説明していかれます。
「永遠の命に至る食べ物のために働く」とはどういうことでしょうか。わたしたちも「食べるために働く」とよく言います。もちろん高級グルメを味わうために仕事をするのではなく(一部にはそういう方もいらっしゃいますが)、「働けないとおまんまの食い上げや」とか、「働かざる者食うべからず」などと言われるように、生きるために働くことです。それはこの世の命を生きるために必要です。それに対して「永遠の命に至る食べ物のために働く」というとわたしたちはまず天国に行けるようにがんばることだとかんがえてしまいますが、ここでは「神のわざを行う」と表されます。それは神がお遣わしになった者を信じることだということです。
「信じる」というと認めることだと思うかもしれません。遠い昔に流行語になった「アナタハ神ヲシンジマスカ?」というフレーズや「宇宙人を信じますか?」などという質問のように、いるかいないか、存在するかしないかの判断だと思ってしまいがちです。しかし、イエスはご自分がどういう存在であるかを認めるよりまず、神の教えそのものを信じることを望まれているのではないでしょうか。
先週の奇跡は、神の教え、そして愛は大勢の人を満腹させて余りあるものだということを示されました。さらに「何の役にも立たない」と切り捨てられようとした、取るに足りない存在が大きく広がるもととなる、神の国のあり方を表しました。その源にイエスがいらっしゃるという「しるし」だったのではないでしょうか。このあとイエスは、ご自分が命のパンであることを人々との対話を通して明らかにされていきます。わたしたちもイエスこそが神の国をこの世に開く方であることを信じてついていきましょう。
(柳本神父)