年間第19主日

8月11日 年間第19主日 ヨハネ6章41~51節 この世を生かすためのパン

 イエスが宣言した「わたしが命のパンである」というみことばから、人々とのやり取りを通してそのテーマが次第に深められていきます。8月の福音は同じテーマで続いていくので説教がやりにくいです。同じ教会でミサをするなら「先週も申し上げましたが…」と言わないといけないですね。幸い奈良ブロックは共同宣教司牧なので毎週違う教会なので助かります。けれどもこのコーナーは全教会に送るのでちょっと悩みます。教会学校プリントも同じような場面なので困りますが…。

 今週の福音は、冒頭に記されている「わたしは天から降って来たパンである」というイエスのみことばに対して人々がつぶやくというところから始まりますが、イエスは直接そう言われたのではなく、「神のパンは天から降って来て、世に命を与える」「わたしが命のパンである」という二つの言葉を組み合わせてそう記されています。神のパンは命を与える→それは天から降る→そのパンはわたしであるということですね。
 人々はまず「天から降って来た」というところに疑問を持ちます。「これはヨセフの息子イエスではないか」というわけです。シチュエーションは違いますが、マタイ13章やマルコ6章の「この人は、大工ではないか」と言ってイエスのことを認めなかったことと共通します。どうしてもこの世のこととしてしか受けとめられないのです。
 それに対し、イエスはご自分こそが命のパンであることを告げられます。これはご自分が父のひとり子であり、世を救う存在であることを示していますが、そのことは人々に理解されません。このような状況は、ヨハネ福音書が成立した2世紀初めころ、イエスのことを認めなかったユダヤ人とキリスト者の論争が反映されているとも言われています。
 ユダヤ人にとって「天からのパン」といえばエジプト脱出後に荒れ野で与えられたパン、「マンナ」です。それは流浪の旅の中で飢えた人々に神が与えられた食べ物でしたが、あくまでも当面の命をつなぐものでした。ちなみに森永製菓の「マンナ」というビスケットはここから名づけられたものです。
 マンナはその日に必要な分だけ与えられ、余分にとっておいても食べられなくなってしまうものでした。すべての人が公平に得ることができ、人より多く集めることがないように神が計らわれたのです。ここには貧富の差がない神の国のあり方が示されていました。

 イエスはマンナに代わるものとしてご自分が天からのパンであることを示されました。イエスは永遠の命に至るパンだということです。しかしそれは、死後の世界について言われているのではありません。最後に「世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われているように、「この世を生かす」、つまりこの世の社会をすべての人が喜びをもって生きることができる世界にするために来られたということです。イエスを命のパンとしていただくわたしたちは、そのために招かれているのです。

(柳本神父)