年間第20主日

8月18日 年間第20主日 ヨハネ6章51~58節 イエスのいのちをいただく

 イエスはご自分を「天から降って来たパン」であると宣言し、そこから聖体の秘跡に結び付けて語られます。しかし人々はその意味が理解できず、イエスの教えを受け入れようとしません。それでもイエスは畳みかけるように、「命のパンであるわたしの肉を食べなさい」と告げられます。

 まあしかし、いきなり「わたしを食べなさい」と言われても、それを納得するのは無理っちゅうもんです。実際のところはイエスが弟子たちに語った内容を、ユダヤ人に話す形でまとめられているとも考えられます。また、ここでも宣教初期のキリスト者とユダヤ人の軋轢が背景にあるのかもしれません。キリスト教徒は何やらあやしい儀式をしているといううわさがユダヤ人社会に広まっていた、ということもあったようです。
 「人の子の肉を食べ、その血を飲む」とはたしかに理解しがたい表現です。ユダヤ人たちの疑問も当然だったでしょう。とくに「血を飲む」ということは動物であっても律法で固く禁じられており、ユダヤ人にとってはタブーでした。血を飲むというと吸血鬼ドラキュラを思い出しますが、キリスト教社会においてこのような旧約のタブーに反する存在として描かれているのかもしれません。十字架を怖がりますしね。でもにんにくは関係なさそうですね。吸血鬼といえばパンパネラもそうです。ポーの一族。御存じないですか?
 もちろんこれは聖体の秘跡を表していることは言うまでもないでしょう。しかし、霊的な意味で「肉を食べ、血を飲む」ということを表しているともいえます。それはイエスとつながることによって、命をいただくという意味があります。
 ミサを行わないプロテスタントの教会ではこの箇所を「キリストの十字架に与ること」と考えるようです。肉体をささげ、血を流された十字架の苦しみは我が罪のためであることを悟り、それを受け入れることがイエスの肉を食べ、血を飲むということなのだということです。たしかにそのこともイエスの言葉には含まれていることでしょう。とくにヨハネの福音書においてはイエスの受難が全体のテーマとなっているからです。
 逆に言うならば、聖体の秘跡はイエスが最後の晩さんの席上で言われた通り、イエスの受難と復活の記念であるということです。記念するということは、単に過去の出来事を思い出すということではなく、その出来事が現代の今ここに起こっていることとして受け止めることです。「肉を食べ、血を飲む」という生々しい表現は、あらためてイエスの受難と聖体の秘跡の関係を思い起こさせてくれるものです。

 わたしたちは、ごはんを食べるときに「いただきます」と言います。これは野菜やお肉、魚のいのちをいただく、ということだと教えられてきました。わたしたちもミサに来て聖体をいただくたびに(信者でない方もイエスと出会うたびに)、「あなたのいのちをいただきます」という思いを新たにしてはいかがでしょうか。

(柳本神父)

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