年間第21主日
8月25日 年間第21主日 ヨハネ6章60~69節 だれのところに行きましょうか
8月最後の日曜日でヨハネの福音書における一連の「天から降って来た命のパン」の話は終わります。多くの人々がイエスの話を理解できずに離れていった中でペトロをはじめとする十二人の弟子はイエスのもとにとどまります。
先週もそうでしたが、イエスが「わたしの肉を食べ、その血を飲む」と言われたのを理解するのは難しいことでしょう。わたしがその中にいたと考えても、やっぱり「ひどい話だ」と思うかもしれません。おそらくは、イエスに従った弟子たちが主の受難と復活を体験し、そして「肉を食べ、血を飲む」ということの意味を理解して、「イエスに従うとはこういうことだったのか」と思ったのかもしれませんね。
「弟子たちの多くが離れ去り」というところから「あれ、イエスには十二人のほかにも弟子がいたの?」と思う方もいることでしょう。ルカの10章でも七十二人が宣教に派遣されています。おそらく十二人の弟子のほかに多くの人々がイエスに従っていたのでしょう。その中には女性もいたようです。しかし、今回のようにイエスの教えを理解できなかったり、あるいはイエスが神を「父」と呼ぶことを受け入れられなかったり、あるいはイエスがご自分をメシアだと公言されないことにしびれを切らして去っていった人もいるのではないでしょうか。
それに対し、ペトロは「わたしたちはだれのところに行きましょうか」とイエスのもとに留まります。日本の典礼では、このときのペトロの言葉が聖体拝領前の信仰宣言に長く使われてきました。現在、奈良ブロックではローマ規範版の百人隊長の言葉を使っていますが、以前の言葉になじみがある方も多いかもしれません。
ずいぶん前ですが、神学生のときだったか司祭同士だったか忘れましたが、「あなたをおいてだれのところに行きましょう」という言葉は、イエスに対して「イエスを(ここに)置いて、だれのところに行こうかな?」と言っているようですねーと話し合っていたのを思いだします。日本語の表現って微妙ですね。もちろんペトロは「あなた以外についていく人はいません」という意味で言っているわけです。その理由が「永遠の命の言葉を持っておられる」ということです。このペトロの答えが正しいとすれば、「命のパン」には「命の言葉」という意味もあるということになります。
いずれにしてもイエスのみことば、行い、生き方はわたしたちを永遠の命に導くものであるということです。わたしたちもペトロのように、イエス以外に従うことは考えられないという思いを新たにすることが必要です。そして、それを確かにするものが聖体の秘跡であるといえるでしょう。
でも「あなたについていきます」というには自信がないかもしれません。でもこの文章を読んでいる方、聞いている方はすでにイエスに従っているのです。
(柳本神父)