年間第22主日

9月1日 年間第22主日 マルコ7章1~8、14~15、21~23節 人の中から出るけがれ

 これまで5週続いたヨハネ福音書の「命のパン」についての教えは終わり、マルコに戻りました。その前の7月21日の福音ではイエスを追って集まってきた人々を憐れんで教えられる場面でした。その後、パンを増やす奇跡を行われたあと、ガリラヤ湖の対岸に渡られます。講の福音は湖の東北、ゲネサレト地方での出来事と考えられます。

 そこではファリサイ派の人々とエルサレムから来た人々がイエスのもとに集まります。もちろんイエスの教えを聞きに来たのではなく、チェックするために来たのでしょう。そしたらちょうどそのとき、イエスの弟子たちに手を洗わないで食事をする者が目に留まりました。彼らにとってはイエスをやっつけるチャンス到来というわけです。というのは食事の前に手を洗ってけがれを落とすのは、律法の規定ではありませんが、ユダヤ人の間では守るべきこととして言い伝えられていたからです。
 中学生のころ、食事前には手を洗うことが呼びかけられていたので、わたしは蛇口の水にさっと手を通して済ませていました。それを見た友達が「えらい形式的やな」と言っていたのを思い出します。わたしにとって「手を洗う」ことは食事前の単なる儀式に過ぎなかったのです。ファリサイ人みたいですね。
 たしかに食事前に手を洗うのは大事です。でもそれはけがれを落とすためではなく、衛生的な行為です。それでイエスは人々に「人をけがすものは外から入るのではなく、人の中から出てくる」と言われます。「けがすもの」は罪や悪ということなのでしょう。このことはファリサイ人や律法学者に対する批判となっています。彼らは「自分は律法や言い伝えを固く守って清い人間である」と思いあがって人々を見下していたからです。
 この話からコロナの時代を思い出します。外はウイルスがまん延しているということで、帰ったときは手指をよく洗い、消毒し、服を着替え、中にはその都度シャワーを浴びている人もいたようです。もちろん感染を防ぐための行為ですが、これが高じると「わたしは清いが世間は(あるいは他人は)けがれている」という考えになってしまいます。ファリサイ人や律法学者もそうだったのではないでしょうか。
 イエスはファリサイ人や律法学者に「神の掟を捨て、人間の言い伝えを固く守っている」と言われました。彼らにとっては守るべき言い伝えは神の掟に等しいものだったので、イエスのこの言葉は意外だったことでしょう。けれども、別の箇所でも語られているとおり、彼らは「神の掟を守る」と言いながら、第二の掟である「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を守っていなかったからです。

 イエスが「人の中から出るけがれ」と言われるものは、わたしたちの心の中にあります。それをなくすことは困難ですが、イエスの十字架による神の愛を信じ、清めていただくことを求め続けることが大切なのだと思います。

(柳本神父)

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