年間第23主日

9月8日 年間第23主日 マルコ7章31~37節 「エッファタ」-イエスは何を開かれたのか

 先週の出来事のあと、イエスは異邦人の町・ティルスで異邦人の娘をいやされます。それに続くのがこの箇所ですが、耳が聞こえず、舌の回らない人をいやされます。イエスはこの奇跡を通してわたしたちに何を示そうとされるのでしょうか。

 この人は聴覚と言語に障害がある「ろうあ者」です。耳が聞こえない人は多くの場合、言葉を聞くことができないため、どのように話したらよいかを学ぶことができません。それで舌がまわらないと言われます。耳で確認できれば言葉を話すことができるのです。
 イエスは直接この人に出会われたのではなく、人々が連れてきます。耳の聞こえない人がイエスの評判を知って連れて行ってくれと頼んだのかもしれませんが、聞こえない人には情報が伝わりにくいため、周りの人々が誘ったのではないでしょうか。障害者は罪びとと同様にみなされていた時代であったにもかかわらず、この人を中心に信頼しあえる仲間がいたということです。その意味では中風の人を寝台に乗せて連れて来たグループと同じようなケースだといえるでしょう。
 イエスは耳の聞こえない人に「エッファタ(開け)」と言われます。原語が記されているのはこの言葉の重みを表しています。イエスの言葉通り、この人の耳は聞こえるようになり、舌のもつれが解けて話せるようになりました。まさに耳と口は開いたのです。しかし、イエスが開かれたものはほかにもあったのではないでしょうか。この人は耳が聞こえず、言葉を話すことができませんでした。それで社会からは閉ざされた存在でした。しかしイエスのいやしによって、この人はさまざまな情報を知ることができるようになり、自分の思いを伝えることができるようになったことによって、社会に対して開かれたのです。
 実はこの人を連れて来た人々の存在によって、彼はすでにその共同体に開かれていたことがわかります。さらに、その人のいやしによって、人々の心が開かれたのだということもできるでしょう。
 ちなみにろうあは「聾唖」という漢字ですが当用漢字から外されたので現在はひらがなで表記されます。「ろう」は龍の下に耳と書きますが、一説によると龍は耳を持っていても聞こえず、代わりに角で音を感じるそうです。社会的弱者であるろう者が勇ましい龍にたとえられているのだとすれば、すばらしいことだと思います。

 今日までパリでパラリンピックが開かれています。ハンディキャップを持ちながらも活躍する選手たちの姿に力づけられた方も多かったのではないでしょうか。ここでは障害者が主役です。けれども、そのような場面に限らず、障害がある人もない人も、子どもも若者も年寄りも、みんなが主役の社会があることをイエスは教えてくださいます。
 イエスは今だに戦争が続き、差別や貧富の差が存在するわたしたちの社会に向けて「エッファタ!」と叫ばれます。そしてわたしたちのひとりひとりの心にも。

(柳本神父)

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