年間第24主日
9月15日 年間第24主日 マルコ8章27~35節 あなたがたはわたしを何者だと言うのか
マルコの福音書にはパンを増やす奇跡が二回出てきます。先週の福音のあと二回目の奇跡とそれに続く箇所、目の見えない人のいやしが記され、そして今日の箇所に続きます。イエスは弟子たちに「わたしは何者か」と尋ね、受難と復活を予告されました。
イエスは弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられ、「洗礼者ヨハネだ」「エリアだ」「預言者の一人だ」との答えを受けて「それではあなたがたは」と問いかけられます。それでペトロは「メシアです」と答えます。マタイではこのあとペトロを教会の頭に任命されるのですが、マルコとルカではだれにも話さないように戒められるだけです。
ペトロの答えは正しいのですが、イエスは必ずしも模範解答を求められたのではないでしょう。大事なことは「あなたがたは何者だと言うのか」というところです。わたしたちも、「○○神父さんはこう言っていました」「要理の本にはこう書いてあります」「聖人はこう述べています」ではなく、自分の言葉で自分にとってイエスとは何者かを答えることが求められているのではないでしょうか。
そのあとイエスは死と復活を予告されます。マルコではエルサレムに向かう前に三回の予告がありますが、これはその最初のものです。ここからイエスのエルサレムへの旅が始まります。それは十字架に向かう旅でもありました。
イエスがメシアであるということはイスラエルの王になる方だと期待していた弟子たちにとって、受難の予告はショックであり、否定したかったことでしょう。それでペトロはイエスをいさめます。イエスはペトロを叱られ、サタンとまで言われますが「お前は悪魔だ」ということではなく、受難の否定は神の思いを邪魔することだと言われたのでした。
どうやらペトロは思ったことをすぐ口にする傾向があったようです。神学生だったころ、東京教区の神学生がテレビを見ながら「お、すごい」「何やってんだ、バカ」など、だれに言うともなく口にされていました。わたしは京都人なので、「これを言うたらどう思われるやろ」とか、「この話題はいまふさわしいのやろか」など、口にする前に一旦考えるので、ストレートに口にするのが江戸っ子気質(かたぎ)なのか、と思った次第です。ペトロも江戸っ子気質だったのでしょうか。
ほかの弟子たちは「言わないでよかった」と安心したかもしれません。でもイエスはペトロの態度を通して、自分に従うとはどういうことかを話してくださったのです。
わたしたちもイエスにつまずくこともあるでしょう。イエスの姿を見失うこともあるでしょうし、イエスの思いに反することもしてしまいます。けれども最後までペトロたちを見捨てられなかったイエスは、わたしたちのことも決して見捨てられません。そのことに希望を持って、イエスの後ろ姿を求めて歩んでいきましょう。
(柳本神父)