年間第25主日

9月22日 年間第25主日 マルコ9章30~37節 勝ち組レースにはずれた人から

 今日の福音はイエスの二回目の受難予告とそれに続く箇所です。先週との間には変容の場面といやしの奇跡が記されています。重ねて受難の予告を受けた弟子たちの心の動きはどのように変化したのでしょうか、それとも変化しなかったのでしょうか。

 弟子たちは受難について二回も予告されたので不安になったのでしょう。「恐くて尋ねられなかった」とあります。一回目に言われた「自分の十字架を背負って従いなさい」という教えが理解できなかったのでしょうか。福音書は必ずしも時系列に沿って記されたとは限りませんが、弟子たちは二回目もイエスの真意が理解できなかったようです。
 受難に対する恐れを忘れていたのか、それともまぎらわせるためだったのか、彼らは「だれがいちばん偉いか」ということを話しながら歩いていたようです。イエスはそれを感づいておられたのでしょう、「何を話し合っていたのか」と問いかけられます。彼らもそれがイエスの教えとそぐわないことを知っていたためか、黙ってしまいます。
 「だれがいちばん偉いか」ということは自分たちの中で順位をつけるということです。最近では「マウントをとる」と言うようですね。彼らはイエスがイスラエルの王になることを期待していたのかもしれません。となると、だれが偉いかは政治的な立場であるということになります。この文章を書いている時点で自民党の総裁選挙が行われていますが、だれを応援するかによって総裁が決まってからの自分の立場が左右されるので、議員さんたちにはいろいろな思惑が背後にあるようです。弟子たちもだれがナンバー2になれるか、だれが勝ち組になれるかを議論していたのでしょうか。
 しかしイエスは彼らを叱らずに、一人の子どもを抱き上げて示されます。社会の中で子どもは宝と言われて大事にされますが、一方ではまだ半人前以下と考えられています。当時のイスラエルの社会では、子どもは何もできない、無力な存在と考えられていました。社会の中では「偉くない」存在なのです。少子高齢化の進む日本では子どもが大事と言われますが、将来の社会を支えてもらうことが期待されているだけのように感じます。
 イエスは「子どものようになりなさい」ではなく「子どもを受け入れる者はわたしを受け入れる」と言われました。ここではイエスが子どもの立場を表しています。イエスの受難は権力の前に無力であったことのしるしではないでしょうか。

 わたしたちは弟子たちのように「自分のほうが偉い」などと公に議論することはないでしょうが、教会の中でも職業や身分によって対応を変えることがあります。また、社会の価値観を持ち込むこともあるかもしれません。偉いのは神さまただおひとりです。けれども、神のひとり子であるイエスは、わたしたちのために、人間社会では底辺の立場である死刑囚となってくださいました。神の国は、この世で勝ち組レースにはずれた人から先に入ることができるのです。

(柳本神父)

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