年間第26主日
9月29日 年間第26主日 マルコ9章38~48節 つまずかせるものは何か
今日の福音はイエスの三回目の受難予告…ではなくて先週に続く箇所です。38~41節の「悪霊を追い出している者」と42~48節の「つまずきについて」の前後二つの内容となっていますが、この二つは続きというよりも別々に考えたほうがいいでしょう。
前半は「イエスの名前を使って悪霊を追い出していた者」についてです。彼らはイエスの名前を利用して自分たちのグループを拡大するつもりだったのか、あるいはイエスの評判が広がっていたので自分たちはその弟子だと偽って悪霊を追い出していたのでしょうか。しかし、イエスの言葉に基づいて考えると反対する立場ではなかったようです。おそらくイエスの弟子ではないが、イエスを尊敬していた人たちではなかったでしょうか。
それでイエスは「やめさせてはならない」と言われます。「悪霊を追い出す」のはいやしのわざであり、それによってその人が社会に受け入れられるのは神の思いにかなうことです。このことは宗派を超えて平和を祈る、苦しむ人々とともにいる現代の諸宗教対話にも通じることです。奈良県でもキリスト教連合会や差別をなくす奈良県宗教者連帯会議など、宗教を超えた取り組みを行っています。
後半のはじめに「これらの小さな者」とありますが、「これらの」にあたる人々は書かれていません。おそらくは編集の過程で別々の教えがつながれたのでしょう。「つまずかせる者」の本来の言葉の意味は「道にわなをしかける、障害物を置く」という意味だそうです。こう聞くとわたしは「チキチキマシン猛レース」というアニメを思い出します。ブラック魔王と犬のケンケンの悪役コンビが先回りしてコースの途中にわなを仕掛けて邪魔をするのですが、よく考えてみれば先回りするのならそのまま先にゴールすればいいんですね。手段が目的になってしまっている例ですね。
わたしたちは「つまずかせる」というと「あの人は信者なのに不真面目だ」とか「神父なのにいい加減だ」というイメージがありますが、イエスがここで言いたかったのは、神の思いから引き離すということです。イエスがペトロに「サタン、邪魔をする者」と言われたことと通じるのではないでしょうか。神と人との間に立ちはだかって、神の愛がその人におよぶのを邪魔すること、また自分に対しては神が愛されていることを否定すること。これが「つまずき」なのです。
イエスは「つまずかせるもの」を切ってしまいなさい、と言われますがもちろんそんなことはできません。それをしなければ地獄に行くと脅しているのでもありません。これは人に対しても、自分に対しても、絶対に神の愛を否定しないように、という厳しい戒めとも考えられます。しかし、わたしたちが神の愛に招かれたとき、わたしたちの罪は清められ、悪は取り去られるのです。それは個人だけでなく、社会全体にも言えることです。そのときを待ち望みながら、神の愛を求め続けましょう。
(柳本神父)