年間第27主日

10月6日 年間第27主日 マルコ10章2~16節 神は見えないところで二人をつないでいる

 今日の福音は、章は変わりますが先週に続く箇所です。ファリサイ派の人々の質問に答える形で離縁について語られます。イエスはこのことを通して人々に何を告げられたのでしょうか。

 ファリサイ派の人々がイエスに「夫が妻を離縁することは許されているか」と質問することがなぜイエスを試すことになるのか。おそらくイエスは離縁されて困っている女性の姿を見て、夫が一方的に離縁することを非難していたのだと思われます。しかし申命記24章の冒頭には「離縁状を書いて離縁するように」と書いてあるので、イエスはモーセの律法を認めないのか、と責めることができると考えたのではないでしょうか。そして申命記はモーセが書いたと伝えられていました。
 しかしイエスは同じくモーセが書いたとされる創世記を引用し、根本的な夫婦関係について説明されます。それは「夫婦は神が結び合わせてくださったもの」ということです。人間同士の約束で結婚したなら人間の都合で別れてもいいかもしれません。しかし、そこに神の思いがあるなれば勝手に破棄することができないということです。
 この教えは「離婚してはならない」ということで説明されがちですが、女性の立場を守る教えとしても理解することができます。申命記には「妻に何か恥ずべきこと」があれば離縁状を書いて離縁できるとありますが、この「恥ずべきこと」が拡大解釈されて小さな失敗でも理由にされたようです。つまり、離縁状を書きさえすれば夫はいつでも妻を離縁できる状態であったわけです。
 イエスは受難を否定したペトロに「神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われましたが、結婚を自分の都合で考えている夫たちに、神が結婚を祝福される意味を考えるようにと創世記を引用されたのでしょう。創世記では女を男から造られたとありますが、生物学的には女性のほうが先に存在したそうです。「助け手」という表現は当時の男性優位の社会のあり方が反映されているようです。本来は対等のパートナーとして夫婦生活を送るべきものでしょう。

 わたしは結婚式の際に伊勢・二見が浦の「夫婦岩」の話をすることがあります。教会の結婚式にはふさわしくないかもしれませんが、二つの岩を結んでいるしめ縄が切れても岩は離れることがありません。しめ縄が二人のつなぐ手だとしたら、手を放しても神が海の底で二人をつないでくださっているから離れないのです。神さまは二人を見えないところで支えてくださっているということです。
 大きい方の岩が男性だというのが偏見だというなら逆でもいいですね。「亭主関白」だとか「かかあ天下」だとか既成の概念にとらわれず、信頼しあえるパートナーシップが必要です。そしてすべての人は、イエスに結ばれた神の国の家族なのです。

(柳本神父)

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