年間第10主日

6月9日 年間第10主日 マルコ3章20~35節 神の御心を行う人

 今週から主日は年間になりますが、週日はすでに聖霊降臨の週から年間になっています。三位一体の主日とキリストの聖体の主日も年間の中でお祝いしました。年間は何もない期間ではなく、とくに「教会の誕生日」とされる聖霊降臨以降は教会の宣教を記念します。福音ではおもにイエスの宣教活動の箇所が読まれます。

 今日の福音の箇所はイエスが12人の弟子を集められたあとの話となっています。前半はイエスが悪霊を追い出すことについての問答、後半は母、兄弟についてです。

医学が未発達であったイエスの時代、原因不明の病気は悪例の仕業とされていました。それで悪霊を追い出していたとき、イエスのことをよく思っていない人たちは「悪霊の力で悪霊を追い出している」と非難したようです。彼らはベルゼブル、イエスはサタンと呼んでいますがどちらも同じ「悪魔、悪霊」を表しているといえます。
 悪魔同士が争うということならば、地方の親分が支配しているところへ全国組織の親分がやってきて、「今日からこのシマはわしらのもんや。逆らうなら出ていけ!」というような縄張り争いのイメージでしょうか。そしてそこへ別の親分がやってきて抗争になって共倒れ…、ということをイエスは言いたかったのではなく、悪霊を追い出し、病気をいやす力は神から来るのだ、ということです。
 この後にイエスは「聖霊を冒涜する者は赦されない」と言われます。律法学者たちは、イエスを認めないばかりか、「汚れた霊に取りつかれている」と非難しました。これは、「悪霊に取りつかれている」とされていた、病気の人々をも見下す言葉です。本来ならば、そのような人々のいやしを願い、愛をもってかかわるべき人々を排除している、そこには聖霊の働きを認めようとしないかたくなな心があるということです。それでイエスは彼らをきびしくいさめられたのです。
 そしてイエスは母と兄弟姉妹が来ていることを告げられます。母とはマリア、兄弟姉妹とはイエスの身内、つまり「いとこたち」のことであったと考えられます。しかしイエスは、周りに座っている人々を指して「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われました。それはイエスのことばを聞きにきていた人々でした。そこには貧しい人、身体の不自由な人、女性や子どもたち、そしてイエスにいやされた人々が集まっていたと考えられます。そのような人々をイエスは家族と呼んだのです。

 イエスの周りに集まってきた人々は決してみんなから尊敬される人々ではありませんでした。けれども、イエスのみことばを聞いて神とつながることを求めて集まって来た人々でした。その人々が「神の御心を行う人」と呼ばれたのです。わたしたちも、立派な人間でなくても、いつも神がともにいて支えてくださることに信頼する心が必要です。それこそが、イエスの願いであり、神の御心であるのです。

(柳本神父)